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こんにちは。黒川直樹です。 こういうものを見たりしていた、 アイヒマン・スタンダード「あらびき団のいつものネタ」 安彦良和「ナムジ ―大国主―」 一条ゆかり「砂の城」 ジョン・カサヴェテス「グロリア」 ビートルズ イエローサブマリン ムービー 阿部和重・中原昌也「シネマの記憶喪失」 ジェイムズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク 1」 ヘンリー・ミラー「モロク」 綾小路きみまろ「十二月のスタジオパークで聞いた小話」 一月十二日~一月十六日のあとに書いた批評文をエントリーします。 -------------------------------------------------------------------- 午後のある日、牛だった、というか「午後のある日」といったって「午後のない日」などないアイヒマン・スタンダードがコントにケータイを上手に使いだしたんだった。お笑いにはヴァーサス「客」というやりかたがあるし、ヴァーサス「ヴァーチャルな誰か」を「客」に見せる笑わせかたもある、ほかにもいくつもあるだろうが、アイヒマンは左耳にケータイを当てた、背をまるめ声を漏らさぬよう手勺を顎先にちかづけながらアイヒマンが喋り出したので電波が話し相手に通じている、そのような設定が浮かぶ。ノートパソコンでもおなじことができるけれどまだそういったコントはテレビで見かけない。ノートパソコンでも喋れるじゃないか。そういえばケータイはノートパソコンになりたがっていた。なりたがって成り上ってあわよくば取って代わろうとする邪だった。 「ハロウ・ファーザー。久しぶりじゃないの。おいおい、きりきりすんな、キルキルしてやるハッハあんたをヤりにきたよ、かーちゃんはもう俺様のモンだしさ」 なんだよ、牛の話ししてたのに、牛歩ならぬ速歩で進んでいくのだ、進んできたのだ、跨った馬がいななく、ヒヒヒンなんて嘘だよ、そんな馬はウチにいないしミナカタだって、さっきの「」のなかみたいなこと言ってなかったけど、そんなこと言っててもおかしくない気がした、それがナムジの息子ミナカタだった。 猛ったミナカタは安彦良和に描かれる騎馬であるとき牛のように見えた午後のある日、ナムジは争いを止めるべく戦線に居た。恥を隠さなかった。裏切り者として嘲られる覚悟もあった。愛し合ったスセリにその身を晒した。それでもミナカタに意図は通じない。息子にしたら殺意を勃たたせる再会でしかない。馬にのる牛。というよりも馬と馬に乗る猛者がひとまとまりとして牛に見えた。ところがミナカタは剣の柄を握り締めたりしない。その一瞬を貪るため取り置かれた空隙がおぞましさ。 午後だった、牛なんかじゃない、いくさばに、放たれた矢より鋭いスセリの声が飛ぶ。 「ヤるのよミナカタ!そいつはあんたの父親でもなんでもない!裏切り者の屑よ!」 いざなぎ、いざなみ、からくに、なこく、すくなびこな、おおきみ、おに、ひみこ、やまたいこく、いずも、すさのお。 安彦良和が「ナムジ -大国主-」で描くのは歴史でなく神話としてしか紐解くことのできない日本国の始まりである。 向こうはケータイのない頃合。現代じゃひとを笑わせるにはノートパソコンよりケータイのほうが重宝されるとしておけばよい。そうでしょう、アイヒマン、そうでない、そうである、どちらでもあるのだからこそ、どちらかにしてみるのだった、するとザラザラした手触りがあって、いえす、ええ、いにしえ、とこしえ、いいえ、ベーベーベー、あやしたかっただけよ田舎で飼ってる赤ベコ、ベーベー、ザラザラしてていいなあ、に、ねえ、牛。虎、うー、たつみー、抱きしめて。そしたら首絞めてあげるからって、苦手なひとにあったときは電話がかかってきたふりをすればよかった。ああ、いい時代だった。かみさまだってよごれていた。みんなが嘘をついてなんかない。みんなが嘘をついているという真相が嘘みたいに鮮やかだったりしない。 「ぶっころして!ミナカタ!」 そうでした、誰一人として満ちていないなんていうフェアネスなんかないのでした聞こえますか、アイヒマン。またの名をバック・ダンサーのチェ。なんてよいタイミングでいつもケータイが鳴るのだ。それ、たがためのかねかね、そういえばあれもこれもみんな、かねのためなんだってね、へっへ、崇められることのありありを蔑した男が祀り上げられる、吊るし上げ、世界的な血祭りに赤い星にされたのはカリブのチェだった。 とこよ、おうおうにして、牧場はたおやか。 牛だ。 だからわかるかな、紙は食べないんだよ、そこの半そで半ズボン、言うこと聞きなさい、そしてひっこめた手にコーンを握るんだ。 あの夜は弄んだりせず乳首なら指先に摘んだ。 絞った。そして練った。粘り気をだすために攪拌するというのは愛だの性だのでなく議論や哲学に倣った。 それで、舐めてくれたら生クリームみたいな味がすると思うはずだった主体なんかないのだ、おもむろにはじまってとうとつにおわる、おもしろいのはそれだからじゃない?問いかける相手がないなら鏡を手に持って誰かをブったらいいのだ。グロリア。君はどうして大嫌いなガキをあやしたりしたんだろう。あんなさみしいマンションに暮らしていたのか。殺人鬼になってしまった。ファッキンシット。ブーシット。嫉妬。お洒落じゃない洒落、お洒落なんかクソクラエだった、だいたいあんたにお洒落っていわれるような洒落なんか洒落じゃないんだ、わかるでしょ、わかられちゃったらお別れしなきゃならないの、水色のドレスが似合った年頃ならば、ブーシットと嫉妬、あたしにだって覚えがあったのそれらよって、ハンドルのかわりにピストルを握る。 「やあミナカタ、そこから見えるか」 グロリアの握り手には君が空けてた隙はない。 だけれど問題はそんなところにない。だって警官はひとりも「グロリア」その劇中に現われないのだった、劇的な不在。マウロン、モロイ、ジュネ、ここに居ないのだと誰が教えるか誰が教える不在か、モジリアニ、モーゼ、ヒバヒコ、リファラされる奇人たち、此処に居ないのだと何処がそう教えるか何処が教える不在か。 だからグロリアにおいて何人が撃たれようと殺されようと警官が劇中に人物としてあらわれることはないのだった、警官が登場しないことについては考えたほうがいい気がしたよ、たとえばモっさい中年白人男性と小奇麗な少年が旅してくアメリカ、たとえば気障で粋な中年白人男性と小奇麗な少女がドライブしてくアメリカ、たとえばうらぶれた白人青年とうらぶれた白人青年がサングラスでバイクを走らせるアメリカ、それで映画「グロリア」じゃギャングの愛人として皺を刻んだ中年白人女性が犯罪に手を染める移民の男の子を庇う旅なんであった、ワイドストレートの黒いパンツが生意気にクールなガキなんだったよフォーマルなラインの襟なくせに柄はセクシーなワルいあのディスコシャツもよかった、あ、いや、そういえば二人がする旅ってさ、あれはワンブロックの内側を撥ね当たるパチンコ玉みたいなやるせなさなんだけどさ、彼女たちに行き場なんてないのだった、滞り、じき殺される、線路も、航路も、空路も断たれ、グロリア、ひとひとり撃ち殺すたび、生き延びる可能性が死んでしまう謂わば自殺の煉獄に、あった、あたった、ので、はね、キンキン、はねられ、キンコンキン、とんだ、パンパパン、とんでった、こと、知らせるにしたって枠が要るでしょう、フレームが要るんだ、囲いが要るのだボロボロのバスに買い物キャリーを転がしてしまう、悪態をつく美貌の女、それはフェイの母だった、褐色の膚、乳首なら指先に弄んだ、いいや、摘んで、神様の衣みたいな白色の汁だった、絞って練ってクリームにしたんだ、フェイ、こっち来なさい、フェイ、もう忘れるの、フェイ、あんた殺されるわよってグロリアが親友の息子フェイを叱りつけた、あんたなんか大嫌いよ、ふざけないでクソ餓鬼が、どっか行ってよこの疫病神って、ハンドルと、カーソルと、フレームがなければピンボールじゃない、電光掲示板は今じゃレトロでもあるけれどアンヴィバレンツ、アンビリーバボ、ある地域そのワンブロックというフレームである、加速する鉄球、あちこちにあたり、どこへもいけないのだ、カサヴェテスは中腰で構えたカメラに薄暗い廊下を撮らせた、グロリアとフェイはこうして囲われた、閉じ込めれば閉じ込めるほど閉じ込めなければならないナニカとして際立つことわり、 「ヤるのよミナカタ!そいつはあんたの父親でもなんでもない!裏切り者の屑よ!」 安彦良和が描く男性、権力、武力、戦場、孤立、戦闘集団などは、 「アイシテ!ミナカタ!ソノヒトワアナタノチチ!シンノフセイヨ!」 空く、悪、飽く、までも、安彦の描くそれらいわゆる男性的なあれこれどれも母性の反照であるということ。それを思い出しながら機動戦士がなにを守りなにを奪うために殺しあわされていたかということ。ランバラル、ランバララル、応答せよ、こちら黒い三連星、あ、はは、だ、はは、ひひ、ほしーほしー、ひひひ。 「だから、フェイ!行ったり来たりするんじゃない!」 そういえば行ったり来たりだった、あれ、カサヴェテスの意図だったかどうかわからないけれど家族が惨殺されてる頃にフェイが廊下をうろうろしていた、けど、それだけじゃないのだからあたしは生クリームの味をさせるために肌をつるつるにしておかなくちゃならないはずだったって思えば、主体なんか無いんだ、けったいな、たいしたことないよ、いけない、すぐ忘れてしまう大事なことは食べて血肉にできたらいいのになぁ。ママあのクリームちょうだい。きのうパパと塗り手繰って遊んでたアレあたし見ていたのよ、それと、見ていたいよ、いたかった、いたかった、ので、いたい、いたい、いたいって、いいたかったのでした舐めてくれる人がいたらもっとよかった。ほんとよ、牛じゃないの、人、いたときもあってさ。 とりあえず、ゆで卵なら噛んだっていいけれどゆでてないモノにはお願いだから歯は立てないでください、あやしてください。 くびしめるみたくだ。 下げてた銃口を立て定めるまえに引き金を引いたグロリアは黄色い潜水艦に乗り込んだからシリトリしよう。 黄色い潜水艦だろ、ローションプレイ、イマジナリー、リード、土嚢、海、水、ずいぶん遠くまで来た、狸はいない上出来、狐、猫がいたら抱っこ、子供、もうろうとした朝、さてこれからどうしようってうんめいについてかんがえたルートヴィヒ、ヒトラー、ラード、どれどれ豚野郎ならサッサと飛ばしてしまおう過疎、そんなんこと言うなよってなよなよしていた、ただそこに居ただなんて過去のことにできるなんてずいぶん君は自信家である、ある狐についてのラード、ドーランが濃すぎて顔がよく見えない、ないないない、恋じゃない、いいえ濃いじゃない、いやそれはアニメだからじゃないのかな濃くなっているっていうのはそういうことじゃないかい、濃い、恋、こっちへ来い、いま言ったのってそのまんまの意味でうけとっていいのか。 今ひとつの疑問に辿り着いた。 黄色い潜水艦はアニメーションに浮かぶ。 アニメーションが黄色い潜水艦を浮かばせる。 黄色い潜水艦のアニメーションが疑問として浮かぶ。 浮上する豚。 そんなものは作品に出てこない。 出てこないなら書くなって?それはどうして?いつから「出てこないものは書いたらダメ」ってことになったっけ?だれがそんなこと決めたっけ、だれに決められる筋合いがあったっけ。 ……う、う、う、生まれはどこですか。 かなしい国でした。 たぶんそれは嘘でしょう。 うん、嘘でした。たぶんそうだと思った、ただいまって言ってもらえればそれでよかった、たすかった、たすかった。 たすかった。 そうか、それならよかった。歌を歌えば敵は倒せたんだという。結末にビートルズのメンバーが実写として現れた、現れてしまったとはいわない、末尾に現実があらわれた、ゲンジツ、ゲンジツのやつがシケモクを灰皿からひろう、それがまがニクタラシイほどなんだった、そうだ、シケモクみたいなもんだろうゲンジツは、なのでこの映画はよくできたPVのようではない、よくできたPVは終わりの数分にそれまで語られてきたフィクションをひっくり返すような真似はしない、いや真似することもあろうが、この映画のアニメーションがよいのでした、お洒落クソクラエ、それだけじゃなかったし日仏英米独……どんなアニメでもそこでアニメされる人物の動きが生産国の人物観を見せる、どんな動きとして分節化されてるかわかる、ので、それぞれの国のアニメから動きだけ取り出して照らし合わせるとその国の人間がどんな動きを人間としてるかってことのヒントにはなるかもね、って、誰かそんなこと書いてたっけかというところまで書けたので、たすかった、さっきそうだったシリトリがおんなを一人救った、グロリアが救えたはずだ、醜態の主体なんかじゃない、ところがアニメにされれば念の失せる彼女はイエローサブマリンとしてアニメーションになってしまった彼らのようにパンタロンの似合う髪型にしてくださいとサイケデリックなオーダーを硝子ケース越しにとばす、だけどほんとはパンタロンに似合わない髪形にしてもらいたかった、サイケ、パンタロン、トルエンを深夜の教習所に忍び込んで回し吸いした、それにしたってノンケですって嘘をつかなきゃやっていけない面倒だったろうな、どちらにしてもパンタロンの問題であってプランテーションについての議論ではない。でもプランテーションについての議論でもあるというフィネガンズ・ウェイクの話を記述することの不可避についての考察として読んでみると参ってしまう。 「ほほほほ、フィンさん、あんたってのはまた立ち氏ね!穴曜日(ルビ-けつようび)の朝になると、ほら、武萄酒になっちゃって!寝て曜日の宵になると、あら、酢っかりだめ!はははは、ファンさん、またまた不淫念願(ルビ-フイんネんガン)するんだから!」 柳瀬尚紀の訳業の抜粋である。 それで、 「一列の文字がいくつもの意味を並走させてるので頭がふたつあったらよかったか双頭の蛇がいた目玉は四つあったら片腕の才気に描いてもらえたかもしれないが、何本も線があることについて、まずそれが気になって、技巧のこと、構造のこと、方法のこと、だからどこからどう読んでいいのかよくわからなくなってしまうんだった、突き抜けて、向こう側へ、初台のバーミヤンで聞かせてもらったフレーズでいうと複数のあなたが集っているというほうへ、なかなか、字面を突き抜けることができなくていつのまにか私は子牛が生まれるときに包まれてる身体に貼り付いた袋のようなものべったりだった、(((私)))息苦しくなっていた、アイツの仕業だった、とおい国からとおい過去からアタシをこんなに乱すなんてずるい、覆うなんてズルい(((私)))こっちからじゃとどかないタワシでこすりたいがアンタがこんなもの書いたからアタシは気づけば生まれたての雌牛だったんだ、湯気がでて、むきだしで、ブラブラさせてて、ふらふらしていて、いまにもたおれそうな貧弱を人目に晒したりして、たまらない雌牛よそんなにまっすぐ見ないでよ癖になっちゃうじゃないって、だからもっとしてみて、なんて言わせるばっかりのアンタはズルだ、やっぱりさ、フェアまでは求めないけれどアレ、一本のアレでどれだけカンジさせるかってこと、それがね、アレの、いいところなんじゃないのかって、二股三股なんてちょっとアレなんじゃないかしら、アレの、だいじな、キモチの痒くなる、たまらない気持ちにさせる、アレの肝なんじゃないかしら一本であるということの無限みたいなさ、数で縛らないよっていう潔さっていうか、一本のアレをすーっと追っていくことの豊かさ、なんてこと、妄想劇場の支配人がホザいたらならないんだった、それならあんたどうなのよ、書いてるものそういうもんじゃないのかよって、ほんとうにそうだ、ああ、反省すると生クリームが食べたくてしょうがなくなるときがあったりして、いや、しょうがないときなんかないと言ったほうがいいくらい子牛よりは君のことを愛しているよベイベ」 みたいな語尾上がり口調の長セリフがあったとしても、これじゃきっと阿部さんにそんなんは甘いと叱られる、こんなふうに。 「うん、そうなんだよね、ウディ・アレンの会話の量に比べちゃうとタランティーノの会話だったまだまだ足りてないって感じてしまうね」というシネマの記憶喪失で中原昌也と対談する阿部和重の発言のうろ覚え、それを思い出し、である、みたいな話し、伏線が伏線足りえるということ、そういえば複線には伏線があったりなかったり、伏線は複線を複線足らしめることもあるが復旋である復旋が読める作品であるということがまず伝わってきてしまうようならばまだまだ野暮ったいってことだろうが一条ゆかりの砂の城ったらどうだ、めくるめく…劇場…これでもかってほど…ドロドロしてる…ソープオペラ…うわーまじか…このひと親戚だったんだ…あ…フェランがゲイだった……って、あれ、そういえばだけどなんで誰かがゲイだってことが伏線足りえるんだ、男が男のこと好きでなんでダメなんだっけ、別の漫画でいうと女が女も男も大丈夫だっていうのがどうしてキーになる設定足りえるだっけ、それってなぜか、なにがどう機能して伏線足らしめているかという疑問だってもちろん復旋、なぜか、だなんて、わかってるでしょお、もお、いちいち聞くなんて、ほんと、だめよう、子供ようそんなのわあ、ああ、おまえに比べたらそりゃ子供だろうがさ、相対する女が悪過ぎたよ、なあなあ性器の形状がどうしてそんなに問題になるのかって話してたよ、どうしたって問題になるのよって笑いながら「おまえなんてまだいいよ、おれなんか自分の気持ちを相手に伝えることすらできない十年だった」ってフェランが、黒い刃、長髪の美男子がミルフィに告げた。 (2)に続く
by critique_gips
| 2009-01-17 15:53
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