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杉森です。 ルーツ、ということで僕もこれまでに感銘や衝撃を受けてきた音楽作品について2作品ばかり紹介しましょうか。 カセットやレコードを除くとおそらく初めて手に入れたCD。小学校5年生くらいだろうか。今聞いてもいささかも古びない不朽の名作であり、最初の音楽体験としてこのバンドを経験できたことは僕にとって非常に大きな意味がある。たまというバンドがイカ天のような娯楽番組(実際に視聴したことは無いのだが)から登場したことや、あまつさえ紅白に出場してしまっていたことには驚かざるを得ない。だって結構アヴァンギャルドではないか。笑いと悲しみ、生きることと死の気配。このようなアンビヴァレントな引き裂かれが召還するエレガンス(と書くとまるで菊地成孔のようだが)、というものを僕は無意識ながらにこのバンドから学んだのかもしれない。特にマンドリンやハーモニカ、リコーダーなどの楽器を駆使してさらりと演奏してみせる、楽曲の隅々に漂うおかしみと悲しみとを、彼らほどとびきりのユーモアを持って見事に表現したバンドが、この時代、他にいただろうか。偉大な、という形容詞は彼らには似合わないが、愛すべき、そして今こそ再評価されるべきバンドだ。 中学の時に母親が図書館で借りてきたのを聴き、その不穏な電子音に不信感を覚えたのがPink Floydとの出会いだ。思えばKing Crimsonとも似たような出会いをした気がする。以来、どっぷりとまでは行かない物の、有名どころのプログレにはさんざん打ちのめされた。ただPink Floydだけはいわゆるプログレ的な魅力ではない、正にワン・アンド・オンリーな魅力を持ったバンドで、特にギター小僧であった当時の僕にとって、デイヴィッド・ギルモアのギターサウンドは感涙するほどの美しさをもった目指すべき目標であった。しかし冒頭の電子音やレジのキャッシャーの機械音を間の手に"Money!"と叫ぶ変拍子の曲など、極めて個性的な楽曲達について、当初は不信感しか覚えなかったことは書いたが、やはりこのような「わからなさ」を与えてくれるような作品にこそ、僕は感銘を受けてきたのであると、振り返ってみて思う。 今日のところはここまで。 #
by critique_gips
| 2009-01-05 23:53
あけましておめでとうございます。 今年もアラザルをよろしくお願いいたします。 さて、挨拶もそこそこに初投稿となる私ですが、申し遅れました、安東三と言います。はじめまして。先ほど初詣に行って、終夜運転で帰宅してきたところでございます。 なんかこのアラザルブログにおいては、みなさんご自身のルーツを辿るのがブームになっていて、すごく面白くて僕もやってみたいのですが、僕は特定の作品で語るにはとても乏しいものしか持ち合わせていないので、仕方なく90年代の思い出みたいなものを書こうかと思っています。が、途中で疲れたら寝るつもりです。 さて、僕は1984生まれです。だから1991年は小学一年生、96年は六年生、99年は中学三年生、と非常に分かりやすく対応しているわけです。初めて買ったCDは玉置浩二の『田園』、初めて単行本で買ったマンガは『ダイの大冒険』でした。特にそれらの作品に強い関心を示していたわけではありません。もちろん、今思い返すと上記の作品の良さもわかりますが、当時は「みんなCDとかマンガとか買ってるし、俺もなんか買うか」程度のものでした(本当に熱中していたのは恐竜で、恐竜図鑑だけはよく眺めていました)。 そんなぼーっとしていた僕なんですが、1995年、つまり小学五年生の冬、我が家にケーブルテレビが導入されました。NHKアンド大手民放局のテレビ、1・3・4・6・8・10・12のリモコンの右上にある「テレビ/ビデオ」を押すと、その裏には無数の専門チャンネル群が存在し、それぞれに奥深い、というか趣味に没入できる世界があることを知りました。つまりそれは、ある種の文化的「めばえ」でした。ちなみに僕の精通があったのもこの頃です。 僕が最初にはまったのは、スーパーチャンネル(現:スーパードラマTV)です。現在は『シックス・フィート・アンダー』や『ソプラノズ』など、アメリカで放映されたドラマを1クールか2クールぐらいですぐ吹き替えて追っかけるようなイケイケなチャンネルになっていますが、当時放映されていたのは、『特攻野郎Aチーム』『刑事コジャック』『白バイ野郎ジョン&パンチ』『スタートレック(カーク艦長やミスタースポックのやつ)』『プリズナー・ナンバーシックス』『かわいい魔女ジニー』『ミステリーゾーン(トワイライトゾーンのこと)』などなど。今でもすらすら出てきますが、ホントはちょうど僕の親世代がストライクだったみたいです。僕のトラウマになってしまった『プリズナー・ナンバーシックス』などは、オトナになったらDVDセット買おうと思っています。 次に来たのは、MTVです。主にアメリカで流行っている音楽をミュージックビデオつきで流すこの局には、DJならぬVJという存在が居て、彼らもまた当時の僕にとっては文化系アニキたちでした。今のVJたちはなんだか品がよくてMTVを愛している感じですけれども、その頃はもうちょっとガチなロックファンやヒップホップファンがVJをやっていて、彼らがチャート番組をやると「今週一位のバックストリートボーイズ、何がいいの?」みたいなことを平気で言っていたりしました。面白かったですね。 ある日、僕が学校から帰って今日も『スタートレック』を見ようと思ってチャンネルを回していたら、動く床の上で器用にくるくる踊る男性がいました。Jamiroquai『virtual insanity』のミュージックビデオでした。音楽そのものよりも、ひとつの映像作品としてそこまで完成度をあげている世界があることに、とってもびっくりした記憶があります。その後も、Aphex twinやbjorkなどのChris Cunninghamとか、beastyboysのSpike Jonzeとかを見て、恐れおののいたり笑い転げたりしたことを覚えています。ま、そういう監督名も後から覚えたわけですが。 さて、そんな風に洋楽の洗礼を受けた僕の中には、「洋楽=エライ」「J-pop=クソ」という見事に歪んだ価値観が形成されました。そして同時に、「1・3・4・6・8・10・12=つまらない」+「テレビ/ビデオ=面白い」→「情報量の少ないマイナーなものの方が面白い」という、これまた見事におかしな価値観が植えつけられました。このあたりに、僕自身の個人的なコンプレックスが加わったために、一昔前なら「サブカル」と呼ばれるようなイタ~イ自意識人間になったところがあります。 そこでおかしなことが起きます。洋楽が一番エライので、日本において評価できるのは、坂本龍一界隈など、世界規模で評価されてる人になってくる。坂本龍一が褒める人はとりあえず偉い。みたいな。もうここまで行くと信者なわけですが、まあその割りに村上龍読んだくらいで悦に入っていたり。当時の僕の行動の全てに「(笑)」がつきますね。 世界を相手にしてるヤツがエライ。世界と繋がるには、日本で頭張れる人じゃないと不可能。そう思っていた矢先、坂本病に掛かった僕を救うヒーローが現れたのです・・・。 さて、連載っぽくするんなら、この辺で一端区切るのがいいんじゃないですかねw。 もう空も明るくなってまいりました。今夜はこのくらいでおいとまします。おやすみなさい。 あ、そうだ。 みなさんにとって今年が良い一年となりますように。 #
by critique_gips
| 2009-01-01 06:48
| 大体アラザルが毎日批評
『アラザル』同人の、皆からすっかりPerfumeと綾瀬はるかが大好きだと思われている西田博至です。 私が子どものころから聴いてきて(ところで皆さんが最初に買ったレコードやCDはなんですか? 私はベルトルッチの『ラスト・エンペラー』の坂本龍一によるサウンドトラックでした。ちなみに、ひとりで映画館に行ったいちばん最初の映画も、『ラスト・エンペラー』でした。今はなき、梅田東映パラスでした)、もちろんジャズだのロックだのパンクだのに寄り道していた時期も長く、決してよい聴き手と云うわけではなく、寧ろ楽譜さえ読めない私は、クラシック音楽の何をみて、何を聴いているのか、じぶんでもさっぱり覚束ないのでありますが、好きな音楽は何ですかと問われればクラシックですと答えることに躊躇なく……と云うのは大嘘で、些かの恥ずかしさを覚えつつ、そのため、それほど親しくないひとには、イヤーいろいろですよ、と答えるのですが……しかしやっぱり、そういうアマチュアから一歩もソトに出ていない私がお薦めするクラシックのCDですが、ぜひ皆さんにもクラシックの面白さを知っていただきたい、てゆーか、私はこんな音楽が好きなんだと云うのを、「青春の殺人者」こと山下君の真似をして、ひたすら意味もなく開陳するだけのポストです、コレは。 だからですね、ポストモダンもクソもあったものじゃない。絵画も文学も映画もあったもんじゃないんですよ。 兎に角クラシックですよ。 音楽なんですよ。 amazonやら古本屋のほかに、私がカスのような給料の大半を貢いでしまっている某レコード店のキャッチコピーを略奪するなら、まさに、「NO CLASSIC,NO LIFE!!」なのですよ。 では、さっそくはじめてみましょう。 世の中にマーラー交響曲全集は数多存在しますが、まずはガリー・ベルティーニがケルン放送響を指揮したもの。コレです。いきなり全部は要らないなんて云わずに、どうせ結局、全部欲しくなるんだから、買っておきましょう。私は14歳のとき、ベルティーニとケルン放送響のマーラーの『復活』(交響曲第二番のこと)のライヴをフェスティバルホールで聴いて、頭がオカしくなったんじゃないかと云うぐらい泣きに泣いて、それから以降の私はそれまでの私とはすっかり変わってしまった、と云うような体験をしたのでした。 西欧のクラシック音楽の生んだ巨大怪獣は、オペラと交響曲ですが、後者はマーラーとブルックナーで完成されると云ってしまってもいいのではないかと思います。もちろん、彼らよりあとの時代にも交響曲は作られます。例えば15曲も作っているショスタコーヴィチとか。で、ブルックナーと云えば朝比奈隆やチェリビダッケやヴァントと云った指揮者の振ったものがよいと云われ、成るほどそれらも大したものなのですが、私がいちばん好きなのはヤッシャ・ホーレンシュタインの指揮したもの。特にこのCDは、第八番と第九番のふたつが収められていてとてもお得で、どちらも素晴らしい演奏なのですが、壮絶無比な美しさなのが、第九番。これはホントにスゴイ。超オススメです。 黒沢清の『トウキョウソナタ』ではピアノ曲が大変印象的に使われていたクロード・ドビュッシーですが、彼を現代音楽の始祖と見做すひとは多く、また、彼の曲は現在も、多くの指揮者とオーケストラに演奏されております。私が特に好きなのは、現代音楽の作曲家(しかも2008年現在、いまだ現役です)としても名高いピエール・ブーレーズが、1960年代に録音したコレです(ずいぶんあとに録音したものもありますが、断然こちらで)。キンキンと透徹した演奏が、表題に引きづられた演奏の多かったドビュッシーの管弦楽曲から、埃と手垢をすっかり洗い流して、マテリアルの地の美しさを顕わにします。指揮者としてのブーレーズには、他にもストラヴィンスキーの『春の祭典』や、パトリス・シェローの演出も素晴らしいワーグナーの『ニーベルングの指環』のDVDも大変お薦めです。 指揮者としてのブーレーズに触れたなら、作曲家としてのブーレーズも。 「ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」、「レポン」などが最もよく知られていると思われますが、私がいちばん好きなのは、このワークインプログレス形式で作曲された(され続けている)「エクラ-ミュルティプル」。すみずみまで神経の行き届いた、ブーレーズ自身の指揮による演奏で。 WWII後のヨーロッパの現代音楽の世界を引っ張ったのは、ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、そしてルイジ・ノーノの「三羽烏」でした。ノーノは1980年代からライヴ・エレクトロニクスの作品に取り組むようになるのですが、私はこの時期のオペラ『プロメテオ』などもとても好きです。ギリギリまで追い詰められる音と、何かパーンと突き抜けたような開放感のふたつが並存しているように思うからなのですが、此処では「死の間近な時」と、テューバとライヴ・エレクトロニクスのための「ドナウのための後-前-奏曲」の大変すぐれた演奏が収められているこのディスクを。 ヘルムート・ラッヘンマンは、現代音楽の世界では現役チャンピオンのひとりで、つまり巨匠、なのですが、彼の音楽ほど、圧倒的にうねりまくる雄弁な「沈黙」を濃密に描き出している……何を云っているか判らない? たとえばワーグナーのオペラが持っていた官能的なうねりと沈黙のざわめきを、ラッヘンマンはまったく違う方法で、私たちの前にさしだすことができる作曲家なのです。聴いてみれば、きっと判ります。ラッヘンマンの集大成的な作品であるこのオペラ『マッチ売りの少女』は、改訂版であるカンブルランの指揮のものを此処ではお薦めしますが、初演のツァグロゼク指揮のものも大変よい出来です。 私はオペラが大好きです。 オペラと現代音楽が、私の大好物です。どちらも歴史の終わりと過剰に直面しているからでしょうか。 オペラの持つ、尋常でない感じに触れていただくには、やはりワーグナーしかありません。特に『トリスタンとイゾルデ』をお薦めします。この演奏には、最晩年のフルトヴェングラーのスタジオ録音、バイロイト音楽祭でのカラヤンの1952年ライヴ、ヨッフムの1953年ライヴ、最近ではティーレマンのウィーン国立歌劇場ライヴなど素晴らしいものは多いのですが、私がガキの頃、昼飯代を削って買ったカルロス・クライバーのスタジオ録音を。透明な焔がゆぅらりゆらりと燃えさかるさまが絶品です。ちなみに、私が実際に体験したこのオペラの演奏で、14歳のときのベルティーニによるマーラー演奏を超えるような経験をしたのは、ベルギーでの大野和士の指揮によるものでしたが、これは残念ながらディスク化されていません。すみずみまで見渡せる透明度の高い演奏でありながら、怖ろしく燃焼度の高い爆演でもあると云う、稀有な名演でした。本当に、身体がオペラハウスに溶け落ちてしまうかのような体験でした。 イタリア・オペラのチャンピオンであるヴェルディのオペラも、ドイツのワーグナーとは別の方向から、オペラの極限へと到達しています。この『オテロ』のほかにも『ドン・カルロ』や『椿姫』、『ファルスタッフ』などお薦めはたくさんあります。 さて、この『オテロ』は、カルロス・クライバーやカラヤンなど、優れた演奏の演奏の録音が多いのですが、敢えてクールな演奏で、ヴェルディの音楽をどんどん追い込んで、ドラマを焼き尽くしてゆく、チョン・ミュンフンのこの演奏が、私は最も素晴らしいと思います。 マーラーは死ぬまでオペラを書かなかったのですが、マーラーの同時代人で、リヒャルト・ワーグナーですっかり完成してしまったオペラを、さらに深く掘り進めようとしたのが、リヒャルト・シュトラウスでした。「チャンドス卿の手紙」で20世紀文学をスタートさせてしまったホーフマンスタールの台本を得て、『影のない女』などの傑作を次々と生み出してゆくのですが、そのなかで最も有名なのが、この『ばらの騎士』でしょう。モーツァルトが生きた18世紀のウィーンが舞台となっているこのオペラですが、このDVDに収録された、ロバート・カーセンによる演出では、舞台をちょうどWWI直前、つまりこのオペラが作曲された、ハプスブルク帝国が瓦解する寸前の時代に置き換え、エーリヒ・フォン・シュトロハイムの映画『愚かなる妻』などを思わせる、大変充実した舞台空間を作り出しています。ちなみに私はオペラの登場人物の中で、この『ばらの騎士』に出てくるオックス男爵が最も好きです。なお、映像ぬきで『ばらの騎士』の音楽だけならば、カラヤンの最晩年のもの、またはカルロス・クライバーの壮年期のライヴ盤をお薦めします。 今はなきソ連を代表する作曲家だったショスタコーヴィチは、オペラを作曲する計画を常に持ち続けていましたが、結局実現したのは、わずか数曲です(ショスタコーヴィチのソ連共産党の権力闘争と密接に関わる大変興味ぶかい生涯に就いては、千葉潤『ショスタコーヴィチ』(音楽之友社)がお薦めです)が、しかし、特にこの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、怖ろしいほどの完成度と、その2時間サスペンス的なエロスとヴァイオレンスの充実度で、ポスト・リヒャルト・シュトラウスのオペラの代表作と云えるでしょう。CDではロストロポーヴィチの指揮したものも大変素晴らしいですが、マリス・ヤンソンスの作る音楽と、マルティン・クシェイのクールな演出、そして汚れ役のヒロインを熱演するエーファ=マリア・ヴェストブレークの圧倒的な肉体で、断然このDVDをお薦めします。 明治維新からずっと、近代の日本は、欧米列強へのキャッチアップに死に物狂いだったのは申し上げるまでもありませんが、そのなかで、日本人が作る西欧クラシック音楽もまた、激しく模索されたのでした。やがて大東亜戦争も敗色濃厚な末期、諸井三郎によって作られた「交響曲第三番」は、その模索のひとつの締めくくりとなるものでした。とても美しいシンフォニーです。 そして、或る意味、戦前よりもさらに困難な時代であった、戦後の日本を代表する作曲家は、やはり黛敏郎でしょう。シンフォニーから無数の映画音楽、教育者からTV番組の司会者までさまざまな分野で活躍した彼の作品の全貌を、現在の私たちが触れることは非常に困難ですが(彼の音楽のひとつの集大成と呼んでいい『金閣寺』がたった二度三度上演されただけなんて!新国立劇場は何をしているのでしょうか)、まずはこのディスクで、ニューヨーク・シティ・バレエのために書かれた、雄渾でありながらとても愛らしい「BUGAKU-舞楽-」を聴いてみてください。 黛敏郎の次の世代で、日本の現代音楽を担ったのは、ジョン・ケージの愛弟子だった一柳慧でしょう。もう半世紀ちかくなろうとしている彼の創作の歩みを、ジョン・ケージが徹底的に思索した「音楽」を引き継いで創作されている1960年代初期と、新たな模索期のまっただなかにある1990年代初期でスライスした作品集。もちろん1960年代後半の「ライフ・ミュージック」や「オペラ横尾忠則を歌う」などの傑作や、70年代の「ピアノ・メディア」、「タイム・シークェンス」を経て、80年代の「パガニーニ・パーソナル」に至るピアノを中心とした作品や、2001年の「架橋」など、一柳慧は現役の作曲家として、もっと聴かれるべきであると思います。 とは云うものの、一柳慧も既に75歳。もっと若い作曲家も激しい創作活動を行っています。夏田昌和の作品をぜひ聴いていただきたいのですが、残念ながら彼の作品の録音はありません。ならば、私の好きな望月京の作品集をお薦めしておきましょう。このCDに収められている曲は、どれも、とても耳を驚かせるものばかりです。現在、望月は、村上春樹の『パン屋再襲撃』をオペラ・ブッファとして作曲中なのですが、これは日本では上演されるのでしょうか。ぜひ上演していただきたいものです。 最後にピアノ曲を何枚か。 ピアニスト、マウリィツィオ・ポリーニが20世紀の超難曲(ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ヴェーベルン、ブーレーズ)と格闘した、若き日の超絶技巧の演奏が収められています。ストラヴィンスキーの「「ペトルーシュカ」からの三楽章」とブーレーズの「ピアノ・ソナタNo.2」が特にスゴイです。 ちょうどカルロス・クライバーの『トリスタンとイゾルデ』を買ったのと同じ頃、中学生だった私が買って、繰り返し繰り返し聴いたのが、このグレン・グールドの最後の『ゴールドベルク変奏曲』です。 私のなかでバッハのピアノ曲は、グールドの歌声とセットになってしまっているのでした。 リヒテル最晩年の演奏による、ベートーヴェン最晩年のピアノ・ソナタ「No.30」から「No.32」。 ひたすら耳をすませて……………………。 #
by critique_gips
| 2008-12-31 00:00
| 大体アラザルが毎日批評
皆さんこんばんは。アラザル編集委員の熊谷歩です。 2008年12月28日に、『アラザル』にて「死んでしまえばいいんじゃない」執筆の大橋可也さんらによる新作公演『帝国、エアリアル』が新国立劇場で行われます。そこで、またしても『アラザル』の販売が決定しました。お値段据え置き500円です。 公演詳細は以下の「大橋可也&ダンサーズ」公式HPをごらんください。 http://dancehardcore.com/ そして、もうお手にとられた方は多いと思いますが、佐々木敦先生が2007年9月から2008年2月までHEADZ事務所にて開講した「批評家養成ギブス」がBRAINZ叢書として刊行されました。ブログを書いているアラザル編集委員の文章も全てではないですが入っています。 『「批評」とは何か? 批評家養成ギブス (ブレインズ叢書) 』(佐々木敦、メディア総合研究所) こちらもぜひお手元に! Post By 熊谷歩(http://d.hatena.ne.jp/payumu/) #
by critique_gips
| 2008-12-26 00:43
| アラザル関連告知
皆さんにとって幕末とはなんでしょうか。 維新三傑の大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛でしょうか。 無血開城を実現させた勝海舟でしょうか。 または「日本最初のカンパニー」を成立させた坂本竜馬でしょうか。 ここで僕が紹介したいのは望月三起也の『俺の新選組』です。 新選組といえばどんな作品を思い浮かべますか。 僕はなんと言ってもNHK制作アニメ『飛べ!イサミ』と武田鉄也・小山ゆう『お~い!!竜馬』ですね。『飛べ!イサミ』には様々な陰謀への伏線が散りばめられており、心が躍ったものです。 もともと父が司馬遼太郎好きだったことから家にあった『お~い!!竜馬』ですが、4巻では(単行本版のほうね)竜馬、以蔵、武市が女郎屋に行くというシーンがありまして、初めての性のざわめきを覚えました。その後、親に4巻だけ隠されました。 望月三起也の『俺の新選組』ではなんと有名な池田屋襲撃事件も起こりません。芹沢鴨暗殺までが第一部です。ホーム社版の巻末資料にあるように、この「俺の」には二つの意味があります。一つは望月自身の解釈による「俺の」。二つめは土方にとっての「俺の」という意味です。 結局、歴史ものを小説、まんがにしようと思ったら主観が入るのが当たり前で、その呪縛からは決して逃れられない……。 望月はその呪縛を逆手にとって、思い切りの良い形で『俺の新選組』を描いた、良作。 ホーム社版4巻の巻末エッセイはみなもと太郎で、早く『風雲児たち』も読みたいなあという今日この頃なのです。 『お~い!!竜馬』に慣れすぎている読者は土方の髷結いに注意だ!おなじみ沖田総司の髷が『俺の新選組』では土方勇の髷になっていて、最初はこんがらがるぞ! Post By 熊谷歩(http://d.hatena.ne.jp/payumu/) #
by critique_gips
| 2008-12-20 05:24
| 大体アラザルが毎日批評
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