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まず、穏やかな日々がある。穏やかと言っても問題はないだろう。このところの東京の天気といったら寒いながらにも晴天が続いているんだから。穏やかな日、そしてその昼下がり、女性の局部に墨を入れながら思う。女性の局部について思いめぐらすわけでなく、思うことは私のルーツ。例えばあの小説、例えばあの音楽、例えばあの映画、例えばこの女性の局部。女性の局部はやはり私のルーツには関係なく、関係ないけれどうっとうしくまとわりついる。けれど決定的に私のルーツのいえるものは、芸術にあるのではなく局部にあるわけではなく、私の育った環境にあると思う。正月に実家へ帰省して誇るべき田舎さをあらためて確認し、私は誇らしく思う。一面には枯れ草色の田圃が北の方から吹く風の中、あるべくしてあり、女性の局部に墨が載っているような、法的完遂性まで感じさせる。ルーツだ。この局部的な風景こそ私のルーツに違いない。けれどこの風景はけっして女性の局部とは関係ない。都市でも郊外でもなく、その二項対立からまったく相手にされていない、穏やかな日の素晴らしい昼下がりに戻るならば、女性の局部といってもそれが本当は少女の局部でありそこに関わらなければならないはずの法的規制が、少女の記号性によって、言葉の簡単なお遊びによって、まるで相手にされないように、誰からも語られない場所。私は思わず頓服用の抗不安剤を水なしで飲み込んだ。喉に異物感を憶えながらも私は女性の、しかも少女の局部のことはまるで意識することはなく、ルーツであるこの語られることのない土地を呆然と眺めながら、母に家へ入るよう促されるまで立ちつくしていた。立ちつくしている男性の局部は、やはりその記号性と家父長的理想から、男性の局部ではなく男根に間違いないのだが、いや、けれどこれは私のルーツには関係がない。私のルーツは語られることはなく、少女の局部も男根も語られるが、語られない私のルーツについて私はここに記さなければならないという、あらゆる誰かにとっても興味がないこの決意を私は持っているわけだけど、そこにはあらゆる誰かにとって興味がある少女の局部と男根の物語はまるで関係がない。つまり、少女の局部も男根も私のルーツには関係なく、かつ、私の日常には少女の局部と男根とが水と油が決して混じり合わないように混じり合わないわけではなく、棒磁石にくっついた砂鉄のようにこちらに不愉快さを与えるくらいに蜜月の仲にある。 久しぶりの実家である。母に家へ入るように促される。そう、ループだ。思うことは私のループ。見慣れた玄関を抜けると私は寒風に頬を打たれる。一面には枯れ草色の田圃が北の方から吹く風の中、あるべくしてあり、私は玄関に入ったつもりで出ていた。立ちつくしていた私は、立ちつくしている男性の局部は、やはりその記号性と家父長的理想から、男性の局部ではなく男根に間違いないのだが、いや、けれどこれは私のループには関係がある。母が私に家へ入るように促す。立ちつくしている男根は私の実家へと入ることはないが、それはそれでまた別の処へと入り、私は玄関に向かい、見慣れた玄関を抜けると私は寒風に頬を打たれる。一面には枯れ草色の田圃が北の方から吹く風の中、あるべくしてあり、私は玄関に入ったつもりで出ていた。立ちつくしていた男性の局部は、立ちつくしている私は、やはりその記号性と家父長的理想から、男性の局部ではなく男根に間違いないのだが、いや、けれどこれは男根のループには関係がある、というループ。母が私に家へ入るように促す。立ちつくしている私は私の実家へと入ることはないが、それはそれでまた別の処へと入り、男根は玄関に向かい、見慣れた玄関を抜けると男根は寒風に頬を打たれる。ループ。出たり入ったり出たり入ったり出たり入ったり出たり入ったり出たり入ったり示威示威示威恣意。出す、ループの終わり。立ちつくした男根は少女の局部へと向かい、ループ。そういうルール。いや、これはネーム。 まず、穏やかな日々がある。穏やかと言っても問題はないだろう。このところの東京の天気といったら寒いながらにも晴天が続いているんだから。穏やかな日、そしてその昼下がり、私はぺんてるの赤ペンを持ち読み込む。顔は知っているけれど名前が出てこない人のような男根のいくつかが、少女性/処女性を、家父長制へと取り込む、そんなネーム。示威するところの男根の、少女への要求が描かれたネーム。に対する私のぺんてるの赤のラインは記号を思わせる直線と孤を描き、見ようによってはそれは、局、という日本語の漢字に酷似した形と、部、という日本語の漢字に酷似した形と、は、という日本語の平仮名に酷似した形と、出、という日本語の漢字に酷似した形と、来、という日本語の漢字に酷似した形と、る、という日本語の平仮名に酷似した形と、だ、という日本語の漢字に酷似した形と、け、という日本語の漢字に酷似した形と、リ、という日本語の片仮名に酷似した形と、ア、という日本語の片仮名に酷似した形と、ル、という日本語の片仮名に酷似した形と、に、という日本語の平仮名に酷似した形と、!、というラテン語を起源に持つ数学においては階乗を意味する感嘆符に酷似した形が見受けられる。私の日々。穏やかと言っても問題はないだろう。 post by dhmo #
by critique_gips
| 2009-01-28 22:05
| 大体アラザルが毎日批評
17日(土)11:30〜13:00 西中氏に案内していだきながら池袋西口からてくてく15分ほど歩く。晴れていて気持ちいい。この日は、印刷/製本をお願いしているシナノで、担当Sさんとアラザル2号の打ち合わせ。 担当Sさんに、紙のこと、版型と予算について相談。わたしは本文の紙を肌触りの良い“わら半紙”のような紙にしたいと願うばかりで、それ以外のことをすっかりさっぱり考えていなかったのであって、より多くの人の手元にわたるか否かを決定する役割を大きく担うであろう表紙のデザインは、つるつるにする(PP加工をかける)かカサカサにする(加工はせず紙の素材を生かす)か、未だ決められず。とにかく先ずはアイデアを練らなくては。書店で目立ち、なおかつ手に取ってしまい、あれあれ、勢いで買っちゃったよーう!ってことになるよなデザインをこれから考えます。 版型についてはいろいろ話しているうちに発覚したのだけれど、A5版よりも四六版のほうがずいぶんコストが下がるそう(使用する印刷機の台数が少なく済むかららしい)で、前号のサイズA5版を引き継がない可能性が強くなってきました。2号にして、早くも、リニューアル!ということです(?)。 2号は企画が盛りだくさんで、頁数は前号よりもかなり増えることが予想されるので、たぶん、手に取ったときの印象としては「小さくて厚い!」つまりは辞書のようなものになるのではないかと。 …みなさま、おたのしみに! 2号表紙デザイン担当の畑中でした。 #
by critique_gips
| 2009-01-18 11:42
| アラザル編集日誌
こんにちは。黒川直樹です。 こういうものを見たりしていた、 アイヒマン・スタンダード「あらびき団のいつものネタ」 安彦良和「ナムジ ―大国主―」 一条ゆかり「砂の城」 ジョン・カサヴェテス「グロリア」 ビートルズ イエローサブマリン ムービー 阿部和重・中原昌也「シネマの記憶喪失」 ジェイムズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク 1」 ヘンリー・ミラー「モロク」 綾小路きみまろ「十二月のスタジオパークで聞いた小話」 一月十二日~一月十六日のあとに書いた批評文をエントリーします。 -------------------------------------------------------------------- 午後のある日、牛だった、というか「午後のある日」といったって「午後のない日」などないアイヒマン・スタンダードがコントにケータイを上手に使いだしたんだった。お笑いにはヴァーサス「客」というやりかたがあるし、ヴァーサス「ヴァーチャルな誰か」を「客」に見せる笑わせかたもある、ほかにもいくつもあるだろうが、アイヒマンは左耳にケータイを当てた、背をまるめ声を漏らさぬよう手勺を顎先にちかづけながらアイヒマンが喋り出したので電波が話し相手に通じている、そのような設定が浮かぶ。ノートパソコンでもおなじことができるけれどまだそういったコントはテレビで見かけない。ノートパソコンでも喋れるじゃないか。そういえばケータイはノートパソコンになりたがっていた。なりたがって成り上ってあわよくば取って代わろうとする邪だった。 「ハロウ・ファーザー。久しぶりじゃないの。おいおい、きりきりすんな、キルキルしてやるハッハあんたをヤりにきたよ、かーちゃんはもう俺様のモンだしさ」 なんだよ、牛の話ししてたのに、牛歩ならぬ速歩で進んでいくのだ、進んできたのだ、跨った馬がいななく、ヒヒヒンなんて嘘だよ、そんな馬はウチにいないしミナカタだって、さっきの「」のなかみたいなこと言ってなかったけど、そんなこと言っててもおかしくない気がした、それがナムジの息子ミナカタだった。 猛ったミナカタは安彦良和に描かれる騎馬であるとき牛のように見えた午後のある日、ナムジは争いを止めるべく戦線に居た。恥を隠さなかった。裏切り者として嘲られる覚悟もあった。愛し合ったスセリにその身を晒した。それでもミナカタに意図は通じない。息子にしたら殺意を勃たたせる再会でしかない。馬にのる牛。というよりも馬と馬に乗る猛者がひとまとまりとして牛に見えた。ところがミナカタは剣の柄を握り締めたりしない。その一瞬を貪るため取り置かれた空隙がおぞましさ。 午後だった、牛なんかじゃない、いくさばに、放たれた矢より鋭いスセリの声が飛ぶ。 「ヤるのよミナカタ!そいつはあんたの父親でもなんでもない!裏切り者の屑よ!」 いざなぎ、いざなみ、からくに、なこく、すくなびこな、おおきみ、おに、ひみこ、やまたいこく、いずも、すさのお。 安彦良和が「ナムジ -大国主-」で描くのは歴史でなく神話としてしか紐解くことのできない日本国の始まりである。 向こうはケータイのない頃合。現代じゃひとを笑わせるにはノートパソコンよりケータイのほうが重宝されるとしておけばよい。そうでしょう、アイヒマン、そうでない、そうである、どちらでもあるのだからこそ、どちらかにしてみるのだった、するとザラザラした手触りがあって、いえす、ええ、いにしえ、とこしえ、いいえ、ベーベーベー、あやしたかっただけよ田舎で飼ってる赤ベコ、ベーベー、ザラザラしてていいなあ、に、ねえ、牛。虎、うー、たつみー、抱きしめて。そしたら首絞めてあげるからって、苦手なひとにあったときは電話がかかってきたふりをすればよかった。ああ、いい時代だった。かみさまだってよごれていた。みんなが嘘をついてなんかない。みんなが嘘をついているという真相が嘘みたいに鮮やかだったりしない。 「ぶっころして!ミナカタ!」 そうでした、誰一人として満ちていないなんていうフェアネスなんかないのでした聞こえますか、アイヒマン。またの名をバック・ダンサーのチェ。なんてよいタイミングでいつもケータイが鳴るのだ。それ、たがためのかねかね、そういえばあれもこれもみんな、かねのためなんだってね、へっへ、崇められることのありありを蔑した男が祀り上げられる、吊るし上げ、世界的な血祭りに赤い星にされたのはカリブのチェだった。 とこよ、おうおうにして、牧場はたおやか。 牛だ。 だからわかるかな、紙は食べないんだよ、そこの半そで半ズボン、言うこと聞きなさい、そしてひっこめた手にコーンを握るんだ。 あの夜は弄んだりせず乳首なら指先に摘んだ。 絞った。そして練った。粘り気をだすために攪拌するというのは愛だの性だのでなく議論や哲学に倣った。 それで、舐めてくれたら生クリームみたいな味がすると思うはずだった主体なんかないのだ、おもむろにはじまってとうとつにおわる、おもしろいのはそれだからじゃない?問いかける相手がないなら鏡を手に持って誰かをブったらいいのだ。グロリア。君はどうして大嫌いなガキをあやしたりしたんだろう。あんなさみしいマンションに暮らしていたのか。殺人鬼になってしまった。ファッキンシット。ブーシット。嫉妬。お洒落じゃない洒落、お洒落なんかクソクラエだった、だいたいあんたにお洒落っていわれるような洒落なんか洒落じゃないんだ、わかるでしょ、わかられちゃったらお別れしなきゃならないの、水色のドレスが似合った年頃ならば、ブーシットと嫉妬、あたしにだって覚えがあったのそれらよって、ハンドルのかわりにピストルを握る。 「やあミナカタ、そこから見えるか」 グロリアの握り手には君が空けてた隙はない。 だけれど問題はそんなところにない。だって警官はひとりも「グロリア」その劇中に現われないのだった、劇的な不在。マウロン、モロイ、ジュネ、ここに居ないのだと誰が教えるか誰が教える不在か、モジリアニ、モーゼ、ヒバヒコ、リファラされる奇人たち、此処に居ないのだと何処がそう教えるか何処が教える不在か。 だからグロリアにおいて何人が撃たれようと殺されようと警官が劇中に人物としてあらわれることはないのだった、警官が登場しないことについては考えたほうがいい気がしたよ、たとえばモっさい中年白人男性と小奇麗な少年が旅してくアメリカ、たとえば気障で粋な中年白人男性と小奇麗な少女がドライブしてくアメリカ、たとえばうらぶれた白人青年とうらぶれた白人青年がサングラスでバイクを走らせるアメリカ、それで映画「グロリア」じゃギャングの愛人として皺を刻んだ中年白人女性が犯罪に手を染める移民の男の子を庇う旅なんであった、ワイドストレートの黒いパンツが生意気にクールなガキなんだったよフォーマルなラインの襟なくせに柄はセクシーなワルいあのディスコシャツもよかった、あ、いや、そういえば二人がする旅ってさ、あれはワンブロックの内側を撥ね当たるパチンコ玉みたいなやるせなさなんだけどさ、彼女たちに行き場なんてないのだった、滞り、じき殺される、線路も、航路も、空路も断たれ、グロリア、ひとひとり撃ち殺すたび、生き延びる可能性が死んでしまう謂わば自殺の煉獄に、あった、あたった、ので、はね、キンキン、はねられ、キンコンキン、とんだ、パンパパン、とんでった、こと、知らせるにしたって枠が要るでしょう、フレームが要るんだ、囲いが要るのだボロボロのバスに買い物キャリーを転がしてしまう、悪態をつく美貌の女、それはフェイの母だった、褐色の膚、乳首なら指先に弄んだ、いいや、摘んで、神様の衣みたいな白色の汁だった、絞って練ってクリームにしたんだ、フェイ、こっち来なさい、フェイ、もう忘れるの、フェイ、あんた殺されるわよってグロリアが親友の息子フェイを叱りつけた、あんたなんか大嫌いよ、ふざけないでクソ餓鬼が、どっか行ってよこの疫病神って、ハンドルと、カーソルと、フレームがなければピンボールじゃない、電光掲示板は今じゃレトロでもあるけれどアンヴィバレンツ、アンビリーバボ、ある地域そのワンブロックというフレームである、加速する鉄球、あちこちにあたり、どこへもいけないのだ、カサヴェテスは中腰で構えたカメラに薄暗い廊下を撮らせた、グロリアとフェイはこうして囲われた、閉じ込めれば閉じ込めるほど閉じ込めなければならないナニカとして際立つことわり、 「ヤるのよミナカタ!そいつはあんたの父親でもなんでもない!裏切り者の屑よ!」 安彦良和が描く男性、権力、武力、戦場、孤立、戦闘集団などは、 「アイシテ!ミナカタ!ソノヒトワアナタノチチ!シンノフセイヨ!」 空く、悪、飽く、までも、安彦の描くそれらいわゆる男性的なあれこれどれも母性の反照であるということ。それを思い出しながら機動戦士がなにを守りなにを奪うために殺しあわされていたかということ。ランバラル、ランバララル、応答せよ、こちら黒い三連星、あ、はは、だ、はは、ひひ、ほしーほしー、ひひひ。 「だから、フェイ!行ったり来たりするんじゃない!」 そういえば行ったり来たりだった、あれ、カサヴェテスの意図だったかどうかわからないけれど家族が惨殺されてる頃にフェイが廊下をうろうろしていた、けど、それだけじゃないのだからあたしは生クリームの味をさせるために肌をつるつるにしておかなくちゃならないはずだったって思えば、主体なんか無いんだ、けったいな、たいしたことないよ、いけない、すぐ忘れてしまう大事なことは食べて血肉にできたらいいのになぁ。ママあのクリームちょうだい。きのうパパと塗り手繰って遊んでたアレあたし見ていたのよ、それと、見ていたいよ、いたかった、いたかった、ので、いたい、いたい、いたいって、いいたかったのでした舐めてくれる人がいたらもっとよかった。ほんとよ、牛じゃないの、人、いたときもあってさ。 とりあえず、ゆで卵なら噛んだっていいけれどゆでてないモノにはお願いだから歯は立てないでください、あやしてください。 くびしめるみたくだ。 下げてた銃口を立て定めるまえに引き金を引いたグロリアは黄色い潜水艦に乗り込んだからシリトリしよう。 黄色い潜水艦だろ、ローションプレイ、イマジナリー、リード、土嚢、海、水、ずいぶん遠くまで来た、狸はいない上出来、狐、猫がいたら抱っこ、子供、もうろうとした朝、さてこれからどうしようってうんめいについてかんがえたルートヴィヒ、ヒトラー、ラード、どれどれ豚野郎ならサッサと飛ばしてしまおう過疎、そんなんこと言うなよってなよなよしていた、ただそこに居ただなんて過去のことにできるなんてずいぶん君は自信家である、ある狐についてのラード、ドーランが濃すぎて顔がよく見えない、ないないない、恋じゃない、いいえ濃いじゃない、いやそれはアニメだからじゃないのかな濃くなっているっていうのはそういうことじゃないかい、濃い、恋、こっちへ来い、いま言ったのってそのまんまの意味でうけとっていいのか。 今ひとつの疑問に辿り着いた。 黄色い潜水艦はアニメーションに浮かぶ。 アニメーションが黄色い潜水艦を浮かばせる。 黄色い潜水艦のアニメーションが疑問として浮かぶ。 浮上する豚。 そんなものは作品に出てこない。 出てこないなら書くなって?それはどうして?いつから「出てこないものは書いたらダメ」ってことになったっけ?だれがそんなこと決めたっけ、だれに決められる筋合いがあったっけ。 ……う、う、う、生まれはどこですか。 かなしい国でした。 たぶんそれは嘘でしょう。 うん、嘘でした。たぶんそうだと思った、ただいまって言ってもらえればそれでよかった、たすかった、たすかった。 たすかった。 そうか、それならよかった。歌を歌えば敵は倒せたんだという。結末にビートルズのメンバーが実写として現れた、現れてしまったとはいわない、末尾に現実があらわれた、ゲンジツ、ゲンジツのやつがシケモクを灰皿からひろう、それがまがニクタラシイほどなんだった、そうだ、シケモクみたいなもんだろうゲンジツは、なのでこの映画はよくできたPVのようではない、よくできたPVは終わりの数分にそれまで語られてきたフィクションをひっくり返すような真似はしない、いや真似することもあろうが、この映画のアニメーションがよいのでした、お洒落クソクラエ、それだけじゃなかったし日仏英米独……どんなアニメでもそこでアニメされる人物の動きが生産国の人物観を見せる、どんな動きとして分節化されてるかわかる、ので、それぞれの国のアニメから動きだけ取り出して照らし合わせるとその国の人間がどんな動きを人間としてるかってことのヒントにはなるかもね、って、誰かそんなこと書いてたっけかというところまで書けたので、たすかった、さっきそうだったシリトリがおんなを一人救った、グロリアが救えたはずだ、醜態の主体なんかじゃない、ところがアニメにされれば念の失せる彼女はイエローサブマリンとしてアニメーションになってしまった彼らのようにパンタロンの似合う髪型にしてくださいとサイケデリックなオーダーを硝子ケース越しにとばす、だけどほんとはパンタロンに似合わない髪形にしてもらいたかった、サイケ、パンタロン、トルエンを深夜の教習所に忍び込んで回し吸いした、それにしたってノンケですって嘘をつかなきゃやっていけない面倒だったろうな、どちらにしてもパンタロンの問題であってプランテーションについての議論ではない。でもプランテーションについての議論でもあるというフィネガンズ・ウェイクの話を記述することの不可避についての考察として読んでみると参ってしまう。 「ほほほほ、フィンさん、あんたってのはまた立ち氏ね!穴曜日(ルビ-けつようび)の朝になると、ほら、武萄酒になっちゃって!寝て曜日の宵になると、あら、酢っかりだめ!はははは、ファンさん、またまた不淫念願(ルビ-フイんネんガン)するんだから!」 柳瀬尚紀の訳業の抜粋である。 それで、 「一列の文字がいくつもの意味を並走させてるので頭がふたつあったらよかったか双頭の蛇がいた目玉は四つあったら片腕の才気に描いてもらえたかもしれないが、何本も線があることについて、まずそれが気になって、技巧のこと、構造のこと、方法のこと、だからどこからどう読んでいいのかよくわからなくなってしまうんだった、突き抜けて、向こう側へ、初台のバーミヤンで聞かせてもらったフレーズでいうと複数のあなたが集っているというほうへ、なかなか、字面を突き抜けることができなくていつのまにか私は子牛が生まれるときに包まれてる身体に貼り付いた袋のようなものべったりだった、(((私)))息苦しくなっていた、アイツの仕業だった、とおい国からとおい過去からアタシをこんなに乱すなんてずるい、覆うなんてズルい(((私)))こっちからじゃとどかないタワシでこすりたいがアンタがこんなもの書いたからアタシは気づけば生まれたての雌牛だったんだ、湯気がでて、むきだしで、ブラブラさせてて、ふらふらしていて、いまにもたおれそうな貧弱を人目に晒したりして、たまらない雌牛よそんなにまっすぐ見ないでよ癖になっちゃうじゃないって、だからもっとしてみて、なんて言わせるばっかりのアンタはズルだ、やっぱりさ、フェアまでは求めないけれどアレ、一本のアレでどれだけカンジさせるかってこと、それがね、アレの、いいところなんじゃないのかって、二股三股なんてちょっとアレなんじゃないかしら、アレの、だいじな、キモチの痒くなる、たまらない気持ちにさせる、アレの肝なんじゃないかしら一本であるということの無限みたいなさ、数で縛らないよっていう潔さっていうか、一本のアレをすーっと追っていくことの豊かさ、なんてこと、妄想劇場の支配人がホザいたらならないんだった、それならあんたどうなのよ、書いてるものそういうもんじゃないのかよって、ほんとうにそうだ、ああ、反省すると生クリームが食べたくてしょうがなくなるときがあったりして、いや、しょうがないときなんかないと言ったほうがいいくらい子牛よりは君のことを愛しているよベイベ」 みたいな語尾上がり口調の長セリフがあったとしても、これじゃきっと阿部さんにそんなんは甘いと叱られる、こんなふうに。 「うん、そうなんだよね、ウディ・アレンの会話の量に比べちゃうとタランティーノの会話だったまだまだ足りてないって感じてしまうね」というシネマの記憶喪失で中原昌也と対談する阿部和重の発言のうろ覚え、それを思い出し、である、みたいな話し、伏線が伏線足りえるということ、そういえば複線には伏線があったりなかったり、伏線は複線を複線足らしめることもあるが復旋である復旋が読める作品であるということがまず伝わってきてしまうようならばまだまだ野暮ったいってことだろうが一条ゆかりの砂の城ったらどうだ、めくるめく…劇場…これでもかってほど…ドロドロしてる…ソープオペラ…うわーまじか…このひと親戚だったんだ…あ…フェランがゲイだった……って、あれ、そういえばだけどなんで誰かがゲイだってことが伏線足りえるんだ、男が男のこと好きでなんでダメなんだっけ、別の漫画でいうと女が女も男も大丈夫だっていうのがどうしてキーになる設定足りえるだっけ、それってなぜか、なにがどう機能して伏線足らしめているかという疑問だってもちろん復旋、なぜか、だなんて、わかってるでしょお、もお、いちいち聞くなんて、ほんと、だめよう、子供ようそんなのわあ、ああ、おまえに比べたらそりゃ子供だろうがさ、相対する女が悪過ぎたよ、なあなあ性器の形状がどうしてそんなに問題になるのかって話してたよ、どうしたって問題になるのよって笑いながら「おまえなんてまだいいよ、おれなんか自分の気持ちを相手に伝えることすらできない十年だった」ってフェランが、黒い刃、長髪の美男子がミルフィに告げた。 (2)に続く #
by critique_gips
| 2009-01-17 15:53
ゲイならしょうがないとこもあるんだ。 あきらめっていうか、いやしょうがなくないよ、しょうがないって言ったらだめなんだってば、しょうがないのよ、だってストレートの子たちよりかやっぱりフツーに過ごすためのハードルってあるし、ハードル、そうそうこれって喩えだけれど「なにかを読むときはそこで用いられてる象徴のサイズ、スケール、そのフォルムに着目したら読みが深くなって楽しいよ」とアドバイスくれてたのはクンデラだったかどうだったっけか、みたいにどんどん有名な誰かを挙げてったらもうそれだけでなにがが語れているような気になれるなんて便利であるという気分なら反省的に用いればおそらく有効な武器になるという意味においてあたしはいつだって桂馬なんでした、だいぶ遠くまで飛べるよねって羨ましがられるあたしの肌はほんとうはただ舐めてもらうための生クリームでしかない、逃げ道が近道だったのね、あははは、そうそう、懸命に駆けるその背だけ見たってそのひとが逃げてるのか駆けてるだけなのかどうかなんてわからないからね、というか「ただ駆けてる」なんてフレーズ自体がそもそもナシなんだよ、ああ、そうかも、そうそう、復旋なんだった、父、ううん、乳、絞って練られて寝かされた、あたし、舐められて甘いねって言われるために生きてきたいつだったか生クリームみたいだって言ってくれた馬鹿がいた、馬と鹿、あはは、牛じゃなくてよかったよ、牧場大好き、あまくてやわらかくてふわふわしていて舐めたら次の日になるとお腹を壊す悪夢であるのよって、夢のようなささやきとむつみあいにうつつを抜かしてやった。抜いてあげたりはしない。そこまでお金もらってないしアタシは逃げてるだけだからアンタをいつまでも抜けないのよってよくできた戯れのゴメンなさいでしょう、こういうアタシと彼女とは根っから違うんだ。 「そうか、そういえばそのグロリアどうしてる?」 ボスの脇差、いいかえると子分が彼女の動向を探る。 「あの女、これから来るって。電話あった」 ああ、ほんとはこのひとたち、彼女の動向なんか出来たら彼女をぶっ殺してからめくる瞼に瞳孔としてさぐりたいのだ。蹂躙とは暴行される死の兆し。砂の城のナタリーはフランシスを、グロリアのグロリアはフィルを、この年の差カップルの年上女たちはどうしたっていつまでも年下の恋人を庇うだろう。どこからが自分でとか、どこからはあの子でとか、ここからは母だからとか、こっちからは愛だからみたいな、男とか女とか、そういうの、まったくさ、そうそうこれが言いたかったんだ必然としてならまだしも作品のなかで男とか女とか担ってるキャラのこと際立たせたいからってゲイを用いるのよそう。さいきんとみにそうおもうのだ。深夜番組。ファック。だけどどれもこれもが嫌いなんじゃないのだ。どれもこれもではなくて、どこからでもなくて、どこまでもであると気づいて気がとおくなってふらついたらあの子が手を取ってくれた、大人びた表情で「僕に任せてよ。あなたを助けるんだからね」なんて、ああ、いじらしいこのガキんちょ、みたいな、そういうことなんじゃないの、一緒にいるあいだに情がうつったのよ、覚悟しなきゃね、こういう心境はマズいってそうなのよいっぱい見て来たの愛しちゃってダメになっちゃう子も愛しちゃってそのキモチに終わりを呼び寄せさせられちゃった子もいっぱいいた、見た、みてきた、ほんとよ、だから十年も思いを口にさせないなんて酷い話だっていったってあなたはそれだけの時間があったので終わらずに済んできた、それは認めなかったらいけないわよ、十年も思いを口にできなかったのは性差別があったからだけじゃないんだけれど溶けるときアタシはきっとアイスクリームのことを思う、みたいなことも、生クリームじゃなかったらどうなのかなって、グレーのロリポップ、ホイップしておいたアンラッキーをすくいとって口紅みたいに口のまわりにふわふわさせて遊んでるだなんて女をバカにしてるよっていう不貞腐れがポーズ、それはアタシたちのお約束よ。それに、あんなに、なめらかで、ふわふわと、やわらかくて、うつくしく、かなしい、はだかなんだったら、よびつける、もの、えらべないのよ。そうでしょう。人目を惹くって、そういうことでしょう。 もう一つだけ言う。 なめらかで、ふわふわと、やわらかくて、うつくしく、かなしい、はだかの、アンタのことは、もう忘れた。こんにちは、糞のような暁、クタバレこんちくしょう。 このように、どこからだって、呼びかければそこでおれが糞でなくなるみたいなことはもうわかった。だからわざとやってみる。あなた。だからやらないでいる。あんた。どっちにしたって同じことなんじゃないのかよって吐き気がする。いや、いいことだ、吐き気において「わたし」はカラダを思い出せるのだ、ああ、いや、ここではもう「思い出したものだった」と言わねばならぬ。 でもアホみたいね。こんな、気を使ったりしてさ。喋らなければいいのにシュビドゥワ。そうだこれからはスキャットで生きていこう。 次の行で断念する。 だってまだおれ生意気が言い足りないのだった。 ああ、あたまこんがらがってきた。はやく食べなきゃ悪くしちゃう生クリームのケーキがあるんだけれど冷蔵庫には牛ステーキも冷えていてアレもそろそろ日持ちが気になる頃なんだ、ひとりで居るんならさ、お腹壊したって、それでもまあ、いいけれどさってページをめくる、いや、めくられたとも言える、と感じたときに「あ、そうだ!」って高揚、でもすぐ「いや、違うか……」って失墜する、浮き沈みがきついならページをめくらなくたっていいのにさ、アタシがめくった本、かさなってく、めくらなくたって本はそこいらで重なってるんであり、ページのめくりがアタシのなにかをめくったような気にさせるだけなんだから、アタシがめくった、いや、どうだろう、というか、ページをめくるってそういうことなんじゃないのかな、って、ところでアタシは自分自身でこの身をめくることができるか、アタシ、シタア、シター、逆さから読んでみるほうがスターに近づいた気持ちになって心地よいみたいなアホ話したら「あー?頭イってんなあオマエ」ってたぶん笑われるだろう、スカートのすそをめくることができるアタシはスカートの裾をめくらせることができたけれども、めくらせるアタシはなにかをめくられたのか、わかんないんだ、それともめくらせることでアイツのなにかをめくったか、ああ、いや、ここまで書いてきてなんだけどアイツってダレだ、アイルランドのアイツか、それともアメリカンなアイツか、ボスか、バスか、プールに行こうか、アタシめくられることがないまま時間にまくられていく置いて行かれるっす、なので化粧にゃ手抜かりあっちゃならないんだぜなんつって、ふふ、そんなこと書いてある本がどっかにあったっけ、クンデラか、んなわきゃねーかしらん、なかった、探したけど見つからなかったという書き出しで小説を書いていた気がするテストの裏面に書き殴った泣き言なら一字一句覚えてるっていうこの記憶ったら役に立たないよったらありゃしねーっすアザーっすという筋である小説といってもよく伝わらないかもしれないのでシリトリはじめる。 牛だった、たしかそれだけじゃなかったはず、ずいぶんなことを言うよ、よかったらこっち来ないかな、並じゃないメンバー、バードウォッチング、ぐるぐるしてるんだ、だったら落ち着いたらいい、いや、やい、いや、やだ、だって土嚢でローションプレイなんかできないよ、よかったらこれ使ってくださいってローションもらった、たいしたメギツネだ、黙っていてくださいそろそろ、ろくすっぽ生きてないメギツネなんでしょ、ようやくルールが見えてくるかもしれない、いいえルルルと歌わない、いい加減なことを言っている、ルールなんてあってないようなものである、ルばかり続いてる、てるてる坊主、まる、白い、そうじゃないかもしれない、そうじゃないかもしれないということについて考えをめぐらせる、付箋はどこにある、不戦はどこにある、附箋はどこにある、伏線はどこにある、あれ、そういえばさっきのドーラン女の話なんだけどさ、うんうんなんだっけ、ドーランが濃すぎて真相が見えないって、ああ、ドーランが濃すぎて真相が見えないっていうか、いうからには、はい、いいやさくさくすすめるとルルルと歌わせるプレイなんだけど、どっちでもいいからさっきの話して、てらいがあってさ、さっさとしてお願いよ、よしドーランの女は真相をドーランで隠したんだろうだからそれが真相なんだからよく見えてるじゃないかってこと、とうとういってしまったねって駄々をこねたオマエにルルルと歌う、うそをついた、たすかった。 たすかってよかった。そうじゃなければいつまでも牛だった。 読みかけだったモロクのページをめくる。 「わたしは晩冬に嵐の嘔吐した、ふるい樫の落ち葉に書かれたグロテスクである」 あれ、たとえば飲みすぎの明け方の吐き晒しなんて無様でとてもじゃないが堪らないっスよ醜悪にしちゃずいぶんと気障ったらしいじゃないのさ、けど、あんた、あんた、あたし…… 「そんなアンタが好きぃ」と藤原ノリのアレで唯一笑ったあの声音を真似た。吐き気がした。よかった。池袋じゃキミマロが「あなた!とても美人ですね!鼻から下が」ってトグロを巻く。下地つくって眉かいて紅ひいてからミラーを見た。 「この世界中で演じられている、胸を引きさくようなドラマについて考え、考えぬいた。男と女がいっしょになり、全能の神の前でお互いを押しつぶしては立ち上がらせ、狂喜させる、憐れな涙ながらのことばをささやくところすべてで演じられることばだ。かれは涙で何も見えないまま、窓際の席の隅に縮こまって、絶望してすわっていた」 泣けた。 モー、いや。 あたしったら乳がよっつもある。 2009.01.17 黒川直樹 #
by critique_gips
| 2009-01-17 15:52
こんばんわんこ! カレーが大好きなカレーボーイこと西中です。 こないだ、東京ミッドタウン内にあるデザインミュージアム「21_21 DESIGN SIGHT」に初めて行ってきました。この施設は、美術品を展示する美術館という位置付けではなく、あくまで「デザインを考える場」というコンセプトで作られたので、美術ファン気取りの自分の志向性とは何となく合わない気がして敬遠していたのですが、あと僕の10年物のスニーカーでミッドタウンというセレポ(セレブなスポット)に足を踏み入れるのをためらってもいたのですが、用事で近くまで行った折りにあまりにもお天道様がスカッとしていたので今日はエンジョイしちゃうんだからっ☆とばかりに入館しました。 で、行ったら行ったで面白く感じるものですね。そこで今日は、「21_21〜」で開催中の「セカンド・ネイチャー」展(1/18まで)で気になったいくつかの作品をレビューします。 でもその前に、僕もみんなにならって自分のルーツを無駄にさらしちゃうぞ〜☆ わたくし西中は78年の生まれなので、90年代前半はちょうど中高生にあたるのですが、当時を振り返ってみると、なんだか美少女アニメばかり見ていた記憶があります。中でも、当時はまだ気付いていなかった僕の乙女回路をキュンキュンに刺激した作品が… ★「きんぎょ注意報!」91年 美少女と空飛ぶ金魚が田舎の学校でドタバタ。原作のわぴこのかわいさは異常。 ★「美少女戦士セーラームーン」92年〜 美少女と話せる猫が悪と戦いチャンバラ。ちょっとセカイ系。 ★「赤ずきんチャチャ」94年〜 美少女と狼少年が魔法でドタバタ。変身後のチャチャのナマ足が(ry ★「スレイヤーズ」95年〜 美少女が魔法でドラゴンと戦い世界制覇。大量の腐女子を生んだアニメ。 ★「ふしぎ遊戯」95年 美少女が異世界で聖獣召還にトライ。腐女子たちは図書館で小銭を転がした(謎)。 …実は「セラムン」はかなり幼児に見ていた記憶があったんですが、調べてみると僕すでに中学2年生でしたね(うわ)。そして高校生になり家庭の事情から自由な時間ができると、勉強もせずアニメ漬けの毎日に。何なんだ俺は… ただ自分的に面白い発見だったのが、上記の一連のオタ系アニメを挟む形で「ふしぎの海のナディア」(90年〜91年)と「新世紀エヴァンゲリオン」(95年)が放送されていたこと。「エヴァ」放送当時は、すでに初期「クイックジャパン」を通じてサブカル方面にシフトしつつあったたんですが、その個人史に庵野アニメを見ていたことが密接に影響しているような気がしました。気、ですけど。 では本題の「セカンド・ネイチャー」展のレビューを! まず、同展のカタログにも書かれているとおり、デザイナーの吉岡徳仁がディレクションする展覧会タイトル「セカンド・ネイチャー」という言葉にはいくつかの意味が付与されているのですが、さしあたってもっとも中心的なコンセプトと言えそうなのが美学者・中井正一のこんな思想です。 「人間が二つの足で立ち、手を自由にし、道具を用い、この自然の世界にあるものを自分たちの生きるために、変形し、特別の目的にもこれを用いはじめたのである。この時、人間の驚きの最も大きなるものは、この宇宙の中に秩序があるらしいということに気がついた時であろう。宇宙の秩序を自分の中に写しとることができるということは、この大宇宙の中に、全然新たに人類が創りだしたることなのである。人類は、この秩序が自然の世界のみならず、人間と自然の間にも、また、人間と人間の間にも、あるらしいということを発見したのである。」(『美学入門』中井正一) ここで示唆されているのは、自然法則と人間(個人)の営みが融合したところにある、新しい摂理の可能性です。この中井の言葉を下敷きにして本展が目指しているのは、創作に自然法則を採り入れることによってアート(人工物)でもなくネイチャー(自然物)でもない、「セカンド・ネイチャー」をデザインで示そうということであります。ただし、この意味で言うならば、「セカンド・ネイチャー」ではなく「アート・ネイチャー」と言った方が正しかったのではないかという疑問を僕は禁じ得ません。 ところで、展覧会場にいるとき、僕はこのコンセプトをちょっと変形して、自分の問題意識に引き寄せながら考えていました。つまり、人は、自分のうちに意識がどのようにしてもあるということを引き受けつつ、いかに外部と繋がり自らの意識を越えるか、というようなことです。 その点で、もっともビビッドに反応できたのは、入り口付近に置かれていたカンパナ・ブラザーズの作品でした。寝椅子のような、どこかの島の模型のような形をしたこのオブジェは、カンパナ・ブラザーズが職人たちと協力して籐で編み上げたものです。「即興性と計画性の間を行き来しながら」というカタログのキャプションの通り、完成品はどう見ても当初の設計にはなかったであろう複雑で細かな隆起を描いています。まるで、複数の人間が共同作業をしていく中で立ち上がってくる継起的なリズムをそのまま形にしたかのように。この作品に関わった職人たちは、自らの意識のありようを手仕事のうちに込めつつ、個人を越えて集団の呼吸に自らを溶けこませることができたと言えそうです。さらに不思議なのは、その人間間の営みが自然にとてもよく似た造形を生み出しているということです。僕の胸の高さくらいある作品の頂点から、織り込まれた籐が形を変えながらなだらかに地面へ落ちていくさまは、等高線で見る山の形状だとか、陶器の上を釉薬が落ちていく流れを思わせます。しかも、その細かな隆起が全面に渡ってびっしりと形を成しているところに、この作品の強度があります。このような完成度を実現したのは、カンパナ・ブラザーズが定めた何らかの制作ルールとディレクションの巧みさでしょう。ちなみに、カンパナ・ブラザーズとは、ブラジル出身のフンベルトとフェルナンドの兄弟ユニットで、2人ともちょっとした男前であります。 一方、共同作業するパートナーを「時間」という自然法則に定めたのが安倍典子。彼女は、正方形の紙にフリーハンドで線を描き、その線に沿ってハサミを入れたものを1000枚重ねた独特のオブジェを出品していました(初見)。地層のようにも、風雨が削りだした岩のようにも見える有機的なフォルムを持った作品は、安倍が制作前に描いたラフスケッチに従いつつ、細かな変形やフリーハンドによる線の揺らぎを含んで、繊細な表情を湛えています。一枚一枚の紙の形の違いと全体の印象が一致するところは、ほとんど自然のフラクタル形状のようです。制作にかかる長大で単調な「時間」(=自然)が、安倍の意識に介入して、この美しく複雑なフォルムを形成させたのでしょう。もし手元に缶ビールでもあれば、2時間くらい眺めていても飽きそうにありません。 そして、本展のディレクターである吉岡徳仁の作品には、阿倍の小品とは逆に一番大きなスペースが充てられていました。天井から垂らされた36万本のファイバー線をランダムに切り、雲のような形状を出現させた巨大なインスタレーション作品「CLOUD」の中に入った瞬間、思わずゾクっときたものですが、会場にかかっていた「あーいぇあーー〜」みたいなアニミズムっぽい音楽はなんなんでしょう。激しく萎えます。ともあれ、蒸気のようでいて明らかに質感の違うマテリアルの効果や、そのファイバー線が細かく揺れてちらちらとモアレって見えるところは楽しかったです。さらに、もう一つの吉岡の作品(群)、「結晶シリーズ」とでも呼べそうなオブジェは、水槽に浸した繊維に結晶を付着させて作ったものです。この結晶を付着させる過程は、人の手を介さずに長い時間をかけて行われ、そのときどきの結晶の形成具合によって完成品の見え方が変わるようです。これはまさしく、人が自然法則を利用して作るアートネイチャーな作品のわけですが、今回の場合、水槽の中で作られていく途中の椅子といった「オブジェ化する前」の作品を展示していたので、鑑賞のポイントはもっと現象学的なところにありそうです。すなわち、水槽の中の(現)オブジェを見る我々の意識の中では、元にあった形=(始)オブジェを推測するとともに、未来に現れ出て来るであろう(未)オブジェをも見ているのです。あ、この(始)→(現)→(未)という用語はいま僕が作ったものなので覚えない方がいいです。ともかく、この作品の面白さは、いまこの時間が作品を生み出す過程に含まれているという現象学的な認識を喚起するところにある。その証拠に、すでに出来上がって水槽から出されたオブジェも置かれていたのですが、それはまるで生物から切り離されて1日経ったウンコのように静的でつまらないものでした。しかしここまで書いて、まるでこれでは70年代のプロセス・アートの説明のようではないかと気付いてしまったので、もっと現代的な問題を作品に見出せるよう今後精進します。 さて、最初に自分で設定した「人は、いかに外部と協力して意識を越えるか」問題とはちょっと違う部分で感心したのが東信の「LEAF MAN」です。植物の塊の中から人の足がにょきっとのぞいているというこの作品が唐突に中庭に現れる瞬間、それはもうホラータイム。アート(表現)というよりはよくできたアトラクション。しかし、これも本展のコンセプト通り、植物という自然を利用した展示であり、会期中に何度か衣替えをしたらしいのですが、僕が見たときは正月門松バージョンから移行してあっさりとした緑に覆われたものでした。作品紹介によると、「東がときどき夢の中で見る、植物に体を覆われた人間を再現した」ということらしいが、実はちょっと印象が違ったり。どういうことかと言うと、作品の下から突き出ている足のマネキンは、大人の男、女、子供のものなどなんとなく推測できるようなものだけれど、そのすね足の長さから予測される背丈より作品自体が小さいのだ。どの個体も、ちょうどアゴの高さに頭のてっぺんがきちゃってる感じ。このことから、このオブジェは植物に覆われた人でも、半植物・半人間のキメラを表したものでもなく、植物と人を外科的に接ぎ木したようなもののような印象を与えます。作品を観ながらその接合を想像すると、より生々しくってホラー。つまり東にとっては、植物と人は共存するものでも、融合するものでもなく、接ぎ木されるモノ同士らしいのだ。こういう微妙なアレンジに、作家の感性だとか生命観が浮かび上がってくるような気がしますね(ただし、あくまで僕が観に行った展示期間中だけのアレンジかも知れないけれど)。 他にも、中川幸夫のガラス作品なんか面白かったんですが、感想を書くにもちょっと僕の手には余りそうだったので、興味がある人はご自分で観に行ってください。18日の日曜日まで。 あー、こんなに長い投稿をしてるヒマがあったら次の「アラザル2」の原稿を書かねばならないのだが、とりあえず泥のように眠ります。おやすみるく。 #
by critique_gips
| 2009-01-15 04:23
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