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エイヤッサ―!えー、こんばんは。不肖のアラザル編集部であるわたくしは最近人生を考え直していてですね、部屋のカオスと化した本棚を整理していたらこんな企画を思いつきました。ジャンルは「人生批評」です。並べた年号は読んだ版が出版された時のものである。世代論とか年表とかでも人生という地層を暴力的に時間で切ると何かが見えてくるかもしれないという趣向を持っています。なぜ20才かというとちょうど進行方向が熟す寸前のボーダーな気がするからです。複数の人生を並べて時系列にすると面白いかもしれません。皆さんも是非やってみてはどうでしょうか。他の方のも読みたいです。みんなで血と汗と涙とノスタルジーとセンチメンタあルと何かに塗れた青春の思い出を気の済むまで語り合えばいいじゃないですか!(←気持ち悪い)。最初は10冊のつもりが10冊におさまらず、じゃあ20冊にすればきりのいいところをそうすると足りないので間が悪くて申し訳ないですが、「俺のネバーランド」という感じがしますがww、このそこはかとなく薫る<裏・80年代>なテイストは何だろう……。呪いだ。呪われた血だ。われらは滅びる運命なのか…というのは冗談ですが世間の風当たりにめげずに前向きに生きていきたいと思います。なんでこんな事を言っているのかというと最近「俺の好きだったアバンギャルドがもっと盛り上がるどころか世間的にはまったくの逆境かもしれない問題」というのが浮上しまして、将来はもっとアバンギャルドのパラダイスがやってくるはずだったのに目立ったところではchim↑pomぐらいしかいない気が…。いつの時代もアバンギャルドはアバンギャルドで勝手にやっていればいいのかもしれないのですが、しかし現在喫緊に社会にアバンギャルド/アンダーグラウンドを包摂する余裕がなくなってきているのではないか?のは印象だけじゃなくて調査してみないとわかりませんが、振り返ってみるとこの道は何か途轍もないものとのガツーンときた出会いのショックの連続というか反復強迫のような気がしてきた。やっぱり呪いだ。結局そこから進歩していないのではないかという反省点もありつつ、何事もその体験に回帰するのだという初心に返ったので良しとしよう。そしてこう並べてみると君は「罠に見事に引っかかる人」だということがわかっただろう。欲動のスイッチが局所的にわかりやすすぎる。どうだ。これでもまだ口が減らないのか。自分にかぎっては「人生を狂わせた」が「音楽」とか「漫画」だと成立しないのはなぜだろう(でも映画だとこっちにリスト化されていた。)1年に1回ぐらい高橋源一郎のことを考えたくなります。テイ・トウワの新作が楽しみです。そんな人生ですが、ここからキーワードを探し出すと異端・何となく黒い(ファンキー?)・エイリアン/ユダヤ/アイルランド・形式とその外部・ヒューモア・マテリアリズム……といったところでしょうか。お隣のライバル(?)「ぼくらの島宇宙」的には何事もポートフィリオの一貫だと!あーあとこのアラザルブログで西中さんの「都会のハルキ」が面白すぎたことをここで言っておかなければ! 「既にそこにあるもの」(1999年)大竹伸朗 中学生から高校生のあいだに息子・娘に読ませるべき。課題図書にするべき。何かを創ることのすべてが詰まっている。 「幻の名盤百科全書」(2001年)幻の名盤解放同盟 もはや哲学。アンチオイディプス、じゃなくて言葉と物、じゃなくていや違うんだ。そんな賢しらなことが言いたいんじゃないんだ。かくも不吉な欲望、じゃなくて愛の新世界、じゃなくて、もう!バカ!知らない!宇宙人の聖書級に偉大!!アンダーグラウンドの良心。 「ex-music」(2002年)佐々木敦 もはや哲学その2。特殊音楽解放大統領。 「クローネンバーグ・オン・クローネンバーグ」(1993年) 1番最初に買った映画の本。今年の優雅な傑作「イースタン・プロミス」は感無量。 「ソドムの映画市 あるいはグレートハンティング的(反)批評闘争」(1996年)中原昌也 3番目に買った映画の本。2番目は中原さんが監修した「悪趣味洋画劇場」で表紙デザインがフレッシュな頃の宇川さん。ロメロの「ゾンビ」もフーパーの「悪魔のいけにえ」も「デスレース2000年」も「悪魔の植物人間」も「ザ・チャイルド」もヤコペッティーもこれで知った。映画を見始めた入り口が初期映画秘宝シリーズのここからだったのでその後リハビリに大変苦労することに。そろそろ初期の映画秘宝の功績は再評価されるべき…というような瑣末な昔話は置いておいて、「ソドムの映画市」はジョン・ウォーターズとジョン・カーペンターとジョン・カサヴェテスを同列で論じる誠意に溢れた映画批評という名を借りた愛と自由の書。その後中原氏の自分の本を読んでるのはバカか気違いだけだ、という発言を聞いて人生を考え直す。 「映画はおそろしい」(2001年)黒沢清 あっさりした外見だが実は相当危険思想な書。人間なんかこわくない=映画原理主義。または映画という名の<処刑>装置。 「クラッシュ」(1992年)J・G・バラード 危険思想な書その2。図書館でうっかり手に取ってトラウマに。序文がかっこいい。 「なしくずしの死」(2000年)L・F・セリーヌ 愛と憎悪のディープ・ファンク。怒っている。悲しんでいる。 「名づけえぬもの」(1995年)サミュエル・ベケット 煉獄のディープ・ミニマル。 「肉への慈悲―フランシス・ベイコン・インタビュー」(1996年)デイヴィッド・シルヴェスター、フランシス・ベイコン 複製で「磔刑」のトリプティックを初めて見た時は痺れた。叫び=沈黙。 「ゴダール/映画史」(1982年)J=L・ゴダール 映画を撮ろうと思ったのはこれを読んだのが原因。「思考する形式」としての映画。ゴダールの映画史の「歴史のリミックス(切断―再配列)としての映画=人生」という問題は「人生批評」にも応用できる?媒体(メディウム)としての人生!人体!身体!『私が思うに、映画がきわめておもしろいのは、映画ではこうしたことを見せることができるからです。ある表現を感化したり、それと同時に、ある感化されたものを表現したりすることができるからです。映画にはつねにこの二つの側面があるのです。』『私はいつも他人の言葉をコピーしてきました。私が最初にコピーしなければならなかったのは、すべての人と同様、パパとママの言葉です。それに私は、複写と印刷の歴史に興味をひかれます。また私は今、人々と違って、<感化すること>と<自分を表現すること>とを区別して考えはじめています。(……)私が思うに、<なかから外に出すこと>である<表現>と<外からなかにいれること>である<感化>の間には(ものごとは単純に考えさえすればいいのです)、ある違いがあります。また、ひとつの関係があります。コミュニケーションが可能になるのは、なかに入れられたなにかがもう一度外に出されるときなのです。そしてこのことこそ、私が今、より意識的でより明確なやり方でしようとしていることです。』『そして今になってこうしたことを考えるようになったのは、私がこれまでずっと、映画をつくりつづけてきたからです。つまり、一種のコミュニケーション手段のなかにいつづけたからです……矢を射る者でも、矢を突き刺される者でもなく、矢そのものであろうとしつづけたからです。書いたり、映画をつくったり、考えたり、語ったりするということは、矢そのものであろうとするということなのです。愛というのはこれとはいくらか違っていて、矢が射られたり、矢が突き刺されたりする瞬間のことです。愛し愛されたりする者には、矢のことを考える必要はないのです。』したがって、「私は映画と人生を区別したことはない」ので、「映画のなかにすべてを持ちこもうとしてきた」のだから、「一度映画を通り抜けて、その痕跡が残ってしまった者は、もはや他の道に入ることはできない」…。 「表層批評宣言」(1985年)蓮実重彦 「言葉の自由と不自由」にサスペンスフルに宙吊りで闘う「肉体的エンターテイメントとしての批評」を学んだ。驚愕=嫉妬=眩暈。 「シミュレーショニズム」(2001年)椹木野衣 90年代アートの可能性の中心?『しかし、われわれに必要なのはもっとずっと馬鹿げたアナキズムなのではないだろうか。(もっとどうしようもなくくだらないことがしたくはないか?)』(本文より) 「恋愛の不可能性について」(2005年)大澤真幸 このちくま文庫だと正確には20才までではないが「虚構の時代の果て」は浪人中に読んだので細かいことはいいじゃないか。気にするな。このタイトルは大澤真幸らしさがよく出ている。現代音楽にあらわれる<ノイズ>と社会性の話が面白い。3年前の日記より…『大澤真幸が記述する精緻な理論の、この複雑化した「現実」を凌駕する異様な形式性は、一過性ではない希望を与えてくれる。かといって硬直した理念におぼれることもなく、柔軟に現実と向き合う姿勢も見習うべき所だ。この先の見えない世界を理解するためには、遠回りに見えることも必要だと気づかされる。』一時期「佐々木敦と大澤真幸は似ている説」っていうのがあったのだが、一貫した合理性と形式性の徹底の先にやっと例外的なものが現れる、みたいな思考の相似形が。最近はそうでもない。佐々木先生が良い意味で柔らかくなってきたからだろうか。大澤真幸は意外と観念的なアバンギャルドな感じがする。真幸を読むとバラードとかに魅かれた男子が大学に入ってからラカンとかに走ったメカニズムがわかる。「ナショナリズムの由来」以降出た本の重量に負けて最近遠ざかっている。 「存在論的、郵便的」(1999年)東浩紀 ハイデガーからフロイトへ、というようなデリダ読解のモチーフによって、浅田彰と柄谷行人に代表される旧「批評空間」周辺の現代思想(いわゆるニューアカ/ポストモダニズム)に99年の時点でとどめを刺したやばい本。最初は何だかよくわからなかったけど凄かった。若き東浩紀は、この世界の成り立ちについての思考を、一人でかなり深いところまで切り裂いてしまった(この本のロジックでは深いとか浅いとかいう問題ではないんだけど)。…今思い出したが内容はというと、中期デリダのテクストが体現している問題をコンスタティブ/パフォーマティブ(考えることと行うこと)のレベルの決定不可能性に追いつめ、超越論哲学を根源的な確率的な位相(偶然性と複数性の記憶)に曝す…と要約できる、たぶん。マッシヴかつストイック。あまり人に優しくない本ではある。でも本当の優しさってなんだろう…。誤配された郵便=「ミスしたミサイル」爆撃としての批評! 山下望(1983年生まれ)
by critique_gips
| 2008-12-18 23:58
| 大体アラザルが毎日批評
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